芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!
郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。
郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。
411,500円
目標金額:1,000,000円
39人
終了
このプロジェクトは 終了しました
このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。
2024年03月03日
3月2日『芭蕉出前講座』が多賀城市民サポートセンターで今年度最終講座を開催。満席の26名が参加。前回に続き講師は、高倉敏明氏、藤原益栄氏、京野英一代表の3名。
1.高倉敏明氏講演
テーマ:“国宝”提唱!「多賀城碑」について
多賀城創建1300年について、その根拠となる「多賀城碑」の評価の歩みは、江戸時代に偽作説が出され、大正時代には、文字の彫り方、書風、書体、碑文の内容などが提唱され偽作説が有力となり、歴史的資料として顧みられない存在となる。
昭和36年(1962年)から発掘調査が行われ、その後の多賀城跡の多賀城遺跡調査で検出された遺構の年代決定の指標となり、その結果「碑文の内容」とほぼ一致する考古学的な結果が得られた。多賀城碑の偽作説を見直す検証が行われ偽作でなく、古代の碑という結論になる。これにより平成10年「多賀城碑」は国の重要文化財に指定された。
土の上のモノは時の経過で朽ちて残らないが、土中の埋蔵物の調査で、碑文に書かれている年代と埋蔵物の年代が一致し、まちがいなく古代の遺跡に適合し、文化庁が『ほんもの』と認定した。
多賀城の事は創建など歴史的な文書記録が無く、この碑は多賀城の存在を後世に残している重要なモノで、多賀城創建1300年の根拠となる極めて貴重な碑である。この碑は大陸の影響を受けた、日本列島に残る素晴らしい貴重な宝である。今年多賀城創建1300年に“国宝”相応しい「多賀城碑」の国宝指定を願う。
(講師:発掘調査に携わり、日本の遺跡「多賀城跡」の著書もある。現在NPOゲートシティ多賀城代表)
2.藤原益栄氏
テーマ:多賀城調査64年「三大発見」
1.多賀城碑は本物だった
明治中期以降広まった偽物説に対して、多賀城跡の発掘調査で、780年の「呰麿の乱」で焼かれ、地下に一面ススの層があった。その下に2層の遺構があった。第1期は掘っ立て柱式。焼かれたのは第2期多賀城。礎石式に改修。政庁正殿前に敷石など。間も無く第3期多賀城建設。地震で大きな被害。直ちに第4期建設。多賀城創建1300年祭ができるのは、藤原朝獦と多賀城跡調査研究所のおかげである。
2.全国初「漆紙文書」の発見
1200年も土中にあってなぜ紙が保たれたのか。それは漆の防食作用による。政庁再建の際、漆が多様に使用された。その日の作業で残った漆は表面が乾かぬよう、桶の蓋紙に反故にされた文書が使用された。翌日は蓋を取り作業に入る。漆が付着した部分の紙が土中で腐食せずに残ったのである。このごわごわした遺物は当初「革製品」と思われていた。その後、トレイの水に皮状の紙を入れ様々な角度から凝視し、解読に赤外線テレビを活用して成功した。実は、すでに平城京からも同様の遺物が見つかっていたが、「紙であるはずがない」と問題にされず、多賀城が「漆文書」発見第1号になり「漆紙文書」と命名したが、以後全国各地から続々発見が報じられた。
3.古代の多賀城の街並み解明
西部地域の開発、三陸縦貫道、城南区画整理事業にかかわる発掘調査の蓄積で、古代地方都市で初めて多賀城の広域に渡って大きな街並みで会ったことが判明。
*多賀城創建1300年事業の真の成功の為に
①市民ぐるみの取り組み。
②東北民衆の目線を踏まえる。
③多賀城と関わりをもつ自治体・会と連携を太くする。
④多賀城創建1300年の今年、や賀状費を国宝に。
(講師:「多賀城歴史歳時記」の著書もあり、現在県議会議員。)
3.京野英一代表
1.「おくの細道」(芭蕉自筆・野坡本)の中で芭蕉が涙した七カ所の解説。「涙を流す」とは、大半が離別表現としての「悲しみ」の代名詞だが、多賀城と湯殿山の「涙」は、感激ゆえの「嬉し涙」と評釈されている。この場面を、講演で高野ムツオ氏が「ことばの力」と題して絶賛。「疑いなき千歳の記念」とは、古代史実と認めたゆえの実体験であり、個人の詩情を読み取った芭蕉ならではの創造的表現として、永遠に変わらない“不易”を新たな創作的“流行”で記した文学表現の白眉と述べている。
芭蕉の書名決定には、竪石と呼ばれた多賀城碑を書き写し、古代の碑文を「疑いなき千歳の記念、壺の碑」と書いて、涙を落とすほどの感慨が極めて大きかったのである。多賀城碑に至る古道「奥の細道」を訪ねた結果、幻の「壺の碑」と対面した芭蕉の感動の大きさが、『おくの細道』という書名を生んだと解釈したい。
2.紀行文中の『いささか』の意味について
(広辞苑では①少しばかり、②ものすごく、③かりそめ・ちょっと少し)
・P27「気力いささかとり直し」➝少しではなく「だいぶとか多いに気力をとり直しの意。
・P29「聊心あるもの」➝少しだけではなく「随分と、大いに」の意。
・P31「五月雨の空聊はれて夕月夜」➝少しだけではなく「だいぶ晴れて」の意。
3.多賀城は都市の痕跡やが確認・発掘されており、将来の都市計画に活用し、東海東山節度使の水運に学ぶ古代都市・多賀城を活かす世界遺産構想も視野にいれてほしい。古代首都は多賀城で、最も重要な場所が多賀城である。
(講師:「奥州仙台領『おくの細道』著者。おくの細道松島海道代表)
*次回4月6日(土)am10時~12時、会場が塩釜公民館(ふれあいエスプ塩竈)になります。
JR東北本線「塩釜駅」より徒歩1分、JR仙石線「西塩釜駅」より徒歩15分、駐車場108台(無料)