芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!

郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。

現在の支援総額

411,500

41%

目標金額:1,000,000円

サポーター

39

残り

終了

このプロジェクトは終了しました

このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。

2024年02月05日

2月3日おくの細道松島海道出前講座開催

おくの細道松島海道出前講座開催

テーマは「国宝提唱!多賀城碑」**

1.NPOゲートシティ多賀城代表 高倉敏明さん
講師は、35年間文化財行政に携わり、遺跡発掘に関わり、古代国家の東北支配の要衝『多賀城跡』の著書もある。多賀城碑の歴史的な評価の経緯とその具体的な解説。何故国宝にしようという提案は、多賀城碑の41文字の中身が凄い。

南門の再建に関しては、奈良に現存している建物を研究されている超一流の学者を招いて、6年の歳月をかけて図面をつくり、今の学問で20億円をかけた現在超一級の建物である。遺跡をもとに復元した南門、これに相応しいまちつくりが必要。50年以上も発掘調査は続けられて今も続けている。多賀城碑を根拠としての1300年前の南門の価値は大きく、市民がもっと理解して欲しい。
碑は偽物説が学者から起こり、日本書紀など古代の書物には多賀城の事が載っていないが遺跡の発掘調査から、多賀城は第1期から4期までの変遷が、建物が焼き討ちされた跡が土中から発掘され、年代が割り出され第2期のことと朝
獦の多賀城創建時期が一致。改修年代と碑文が一致し本物であることが証明された。

2.おくの細道松島海道代表 京野英一さん
壺の碑が歌枕として有名だが、西行や頼朝の詠んだ歌などでも有名だが、どこに碑があるかを確認できなかったが、芭蕉が奥の細道で確信を持ってこれが歌枕の壺の碑だと紹介し、この碑だけは当時のまま残っているという事に感動し喜びの涙を流し、直筆の碑文が現在も残っている。紀行文中に芭蕉が流した嬉し涙は湯殿山と多賀城の2カ所のみ。

多賀城は『遠の朝廷』に相応しいまちで、多賀城碑は『国宝』に。
資料の「仙台市東北部と塩釜」で大正元年制作地図と平成元年制作図では、遊水池が少なくなっている。津波が来たら大被害になるので、古代都市の様な豊かな水路を復活したまちづくりをして欲しい。

3.宮城県議会議員 藤原益栄さん
前回講座に続き、多賀城碑「東海遠山節度使」とは何かを解説。

1)藤原朝獦が761年「東海道節度使」を拝命したが、この中に上野・武蔵・下
野が東山道に属しており、多賀城碑には「東海遠山節度使」と記載。任務は、「安
禄山の乱」に誘発された新羅征討の為に、船・兵士・子弟・水手を徴発・検査・
決定すること。

しかし、道鏡台頭により仲麻呂政権がゆらぎ964年「仲麻呂の乱」で仲麻呂、
朝獦らが殺害された。この時朝獦が反逆者として多賀城碑が倒された可能性が
大きい。

2)五畿七道の説明(全国七道駅路図)
「畿内」の初めての定義が『日本書紀』の詔で、「畿」とは帝都から五百里以内
の地で、天子の直轄地。「七道」とは政庁への連絡道という官道。

3)多賀城碑は壮大な碑文のスケールの大きさ源は、時の最高権力者仲麻呂の子
であり側近であったことの自負。陸奥守が陸奥出羽按察使を兼ねていたことに
よる外交の目。東海遠山節度使として自分の任務としても東アジアの動乱を実
感。

4)多賀城碑により多賀城創建1300年が祝える素晴らしい根拠で、是非この年に「多賀城碑」を『国宝』に。
次回は3月2日(土)am10時、多賀城市市民活動サポートセンター(通称た
がさぽ)

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