芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!

郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。

現在の支援総額

411,500

41%

目標金額:1,000,000円

サポーター

39

残り

終了

このプロジェクトは終了しました

このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。

2024年01月06日

令和6年1月定例出前講座開催

1月6日(土)多賀城市民サポートセンターにて、定例出前講座開催。
今回のテーマは「芭蕉の感動の涙」
世界の中で一番各国で翻訳されているのが「聖書」で、次に多いのが「奥の細道」。昨年6月には東京・郵政博物館スカイツリータウン・ソラマチ9階展示場で、京野代表の著書「奥州仙台領の『おくの細道』」が新収蔵資料展示物のひとつとして展示されました。
京野代表が時間とお金をかけ、足で確認した膨大な整理された資料をもとに毎回興味津々なテーマで解説。
今回のテーマは
①芭蕉の涙 7ケ所の解説
『おくの細道』本文中、7ヶ所に芭蕉の涙が記されていることは前回の講座で解説。壺の碑では他所と異なる「感動の涙」。
②多賀城碑は何故壺の碑?
「壺」は宮中の中庭の事。都から遠く離れた地方にある政庁が「遠の朝廷(みかど)」といわれ、多賀城政庁の中庭に多賀城碑が存在したのではないか。碑文は坂上田村麻呂が書いたと言われるが、書いた記録はまだ存在していない。伝承・伝説・史実を記した文献から、「壺の碑」は史実になく「多賀城碑」は史跡として、平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定されている。多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑のひとつに数えられている。

③書作名は何故「奥の細道」?
元禄2年に門人の曾良を伴って約150日の東北・北陸の旅に出て、旅を終えて暫くして江戸に戻った元禄4年から紀行文を書き始めているが推敲を重ね元禄7年に『おくの細道』として完成。芭蕉死後の元禄15年に刊行される。芭蕉の紀行文は、「曾良本」、「柿衞本」、「野坡本」の3種類がある。
当時、人為的名所に過ぎなかった古道・奥の細道が、「おくの細道の山際に十府の菅有」と本文に記され、書名として「奥の細道」が用いられたのである。(テキストP80下段)
有名な日本文学の世界的権威ドナルドキーンが「奥の細道」で一番感動したのは、芭蕉が嬉しくて涙を流したという「壺の碑」の部分だと。

④舟運と多賀城の遺跡
国府多賀城成立の舟運と今後の課題として、当時は奈良平城京と多賀城は船で結ばれていた、という舟運と多賀城の遺跡について多賀城碑の碑文を根拠に、当時の東アジアの政治・文化交流を見ながら「東海道」という海の拠点として多賀城が位置していたのではないか。前回の講座で、玄宗皇帝と楊貴妃、安禄山の乱など時代を同じくして日本にも影響があった話も興味深い。

*壮大な観点から多賀城は偉大なところであり、「多賀城」の名前は多賀城碑が文字としては一番古く、遺跡としては国宝級である。「国宝‼多賀城碑提唱」という新たな視点で『おくの細道』と『多賀城史跡』の見直し調査中。
次回は2月3日(土)午前10時から多賀城文化センターで開催。今後益々面白い展開になる。

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