芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!
郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。
郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。
411,500円
目標金額:1,000,000円
39人
終了
このプロジェクトは 終了しました
このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。
2024年11月07日
11月2日定例出前講座開催
今回のテーマ:多賀城の国府津・通説塩竃の疑問 ―新説・国府津は「松ケ浦島」の湊浜―
講師:七ヶ浜生まれ育ちで郷土の歴史研究家 鈴木七男さん
仙台郷土研究会員・おくの細道松島街道代表 京野英一さん
岩切歴史探訪の会 松本忠雄さん
場所:塩竃市商工会議所会議室
1.「私の報告」国府多賀城の外港・湊浜の検証 鈴木七男さん
講師の鈴木さんは七ヶ浜で生まれ育ち、湊浜にある自家の田んぼで遊んだり、時の流れで変遷する地域とともに歩んできた長年の膨大な記録資料と足で確かめたことを「私の報告」にまとめて、各種古図面や「塩竃市史」などの資料を見ながら「湊浜」を解説した。
多賀城は、神亀元年(724年)に創建されて、陸奥国府が置かれ、古代東北の政治・文化の中心として繁栄し、陸運、水運は興隆を極めた。
湊浜は七ヶ浜町を構成する7つの浜のうちの一つで、七ヶ浜丘陵の南西端に位置し、江戸期古図に「水門浜(みなとはま)」と記され、日本武尊(やまとけるのみこと)の上陸地と伝承され、弁天島の西側には船を繋いだ伝説も遺る。
『日本書紀』によると、日本武尊が蝦夷征伐の折、七ヶ浜の水門「湊浜」に上陸した伝承から、陸奥国の重要な外港と推察できよう。
伊達政宗の御船入堀工事により、湊浜は「多賀の水門」の機能を失う。寛文十年(1670年)貞山運河(御船入堀)掘割工事により、七北田川は岩切から蒲生に流路が変更され、嘉永六年に海からの流砂により浜堤が構築されて水門機能を失う。
多賀城創建とともに、塩竃東入江に国府津が設置された視点から、多賀城政庁から古代痕跡が発掘されたことから「香津」を兵員や物資輸送の拠点の「国府津」とする多賀城政庁を結ぶ古代官道について考察。
天応元年(781年)の「穀一千萬斛仰・・令漕送陸奥軍所」は、舟運による国府多賀城への確かな記録で、大量輸送の叶わない塩竃でなく、湊浜舟運が有力説である、湊浜周辺には長須賀(製塩)遺跡、表浜遺跡、鼻節神社等があり、国府津の宛字である香津町は、「香津千件」の古代伝承と思われる。『続日本書紀』等の兵員・物資輸送記述と多賀城遺跡発掘を根拠として、湊浜(~大代~市川)が多賀城の国府津有力説と視たい。
2.「多賀国府が置かれていた陸奥府中の世界」、「薄ヶ沢用水路の今昔」探訪マップ、「米の道(岩切経由)」 松本忠雄さん
多賀城政庁跡を中心に東宮、南宮、西宮、北宮の位置と、旧七北田川流路(推定)と藩政時代の道、田子大道などの役割などの解説。寛文4年(1664年)から10年かけて仙台藩によって湊浜を河口とする冠川(七北田川)の流れを岩切から南に変え、直接蒲生浜に流す工事が施工された。
また、「米の道」については、①慶長6年(1601年)頃、北上川を下った食料物資は石巻港から塩竃に運ばれ、陸路で岩切の今市を経由して原町御米蔵まで牛馬で運んでいた。②万治元年(1658年)塩竃から多賀城大代まで運河が開通し、当時湊浜を河口とする七北田川に繋がり川舟で輸送して今市の土橋(今市橋)付近で陸揚げして牛馬で原町御米蔵に運んだ。③延宝元年(1673年)蒲生を河口とする七北田川に付け替えられ、一方貞山運河は大代から舟入堀、鶴巻をとおり蒲生まで到達し、ここから苦竹までの舟曳堀が完成し川舟輸送の陸揚げ拠点は苦竹に移った。岩切の「米の道」の役目を終えた。
*12月1日は「茶利亭落語会」を多賀城文化センターで開催。入場料無料。午後3時開演。
次回出前講座は、12月7日(土)、塩釜市公民館聴覚教室。午前10時~12時。