芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!

郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。

現在の支援総額

411,500

41%

目標金額:1,000,000円

サポーター

39

残り

終了

このプロジェクトは終了しました

このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。

2024年07月21日

7月6日定例「芭蕉出前講座」開催

7月6日定例「芭蕉出前講座」開催される
演 題 : 「多賀城碑・壷の碑の成り立ち」と塩竃。歌枕のしほがまと壷の碑検証。

かの有名なドナルドキーンが「奥の細道で一番感動したのは「多賀城碑」だと言う。「壺の碑」を有名にしたのが「奥の細道」である。多賀城が宮城郡(みやぎごおり)の後にできたことが七ヶ浜の遺跡からわかる。
江戸期(寛文年間)に掘り起こされた「碑」は、現地では当時、「竪石」と呼ばれたが、元禄2年5月8日、芭蕉は現地で感涙を流して碑文を書き写し、推敲を重ねた『奥の細道』の最終稿に「疑いなき千歳の記念」と書いた。芭蕉が構想練りながら5年間かけて完成させた「奥の細道」は参考にした書籍は123冊。

実は碑が倒されたのは、藤原朝獦の実親の藤原仲麻呂が、奈良時代(764年)に起こした叛乱で、孝謙太上天皇・道鏡と対立した太政大臣の藤原仲麻呂が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。762年に多賀城碑は建立されたが、建立2年後の天平宝字8年に、仲麻呂の乱により藤原朝獦の建立碑は、「逆族の碑」として土中に埋もれてしまう。
埋もれてから200年後の「袖中抄」に、「壺の碑」とは、坂上田村麻呂が「日本中央」と刻んだ「碑」と都びとから慕われて陸奥代表の歌枕として有名になる。以後、おおくの歌人が「壺の碑」を詠むが、「碑」は幻のままであった。多賀城碑には、多賀城は宮城(きゅうじょう)として「日本中央」の意味がる。「中央」とは「真ん中」以外に『大切な場所。枢要な場所』の意味もある。(広辞苑参照)
土中に埋もれ900年を過ぎ、江戸期に多賀城、市川村発掘の碑が話題を呼ぶ。果たして「碑」の正体は?この碑は失なわれたあの伝説の田村麻呂建立の碑だったのか?
いま国宝指定内定の多賀城碑は貴重だが、歌枕「壺の碑」は幻のままである。「百人一首」に頼朝の句にも、俳諧書留にも、「新古今和歌集」にも、頼朝の「みちのくの・・・・」三十一文字(みそひともじ)記されて、「壺の碑」は有名になっている。
762年多賀城政庁の人口は約1万5千人。約900年間多賀城碑は文字面を下にして埋められ、江戸時代の寛文年間に見つけられる。1682年仙台で俳人として活躍していた大淀三千風が「多賀城碑」は「壺の碑」ではないかと紹介。
明治以降は偽物説が主流となり、最近の発掘作業などで本物と証明され、平成10年6月(1998年)に国の重要文化財(古文書)に指定。今年3月『国宝』指定へと発表された。

*「つぼ」の漢字で
1.下部を「亞」とする「壺」は①口がすぼんだ容器。「壺觴(コショウ)」「壺中」「茶壺」 ②灸(キュウ) をすえる場所。また、急所。要点。
2.「亜」とする「壷」は異体字で意味は同じ。
<参考資料>

仙臺郷土研究会の会報令和6年6月復刊第49巻第1号(通巻308号)『仙臺郷土研究』に当会の講師の論考が掲載される。(一冊2,200円)
① 「国府多賀城成立の水運と今後の課題」・・・京野栄一、
② “国宝”提唱!「多賀城碑」について・・・高倉敏明、
③「多賀城碑の劇的な運命 東海東山節度使とその顛末」・・・藤原益栄

次回の出前講座は、8月3日(土)午前10時より塩釜公民館で開催します。

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