芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!

郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。

現在の支援総額

411,500

41%

目標金額:1,000,000円

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このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。

2024年06月03日

6月1日芭蕉出前講座開催ー塩竈会場

6月1日芭蕉出前講座ー塩釜会場

芭蕉が目指した歌枕・鹽竈(しほがま)ー松島編について
連句の構成を知ろう。俳諧は、新鮮な風雅を求めあう連句の席では、常に斬新さや創造性が好まれます。古いまま和歌の伝統にふける趣きによどみが生まれて重くなるので、好まれませんでした。従って、季節が後戻りする句作は好まれず、“観音開き”となる句は後戻りとして禁じられます。常に季節と共に発句も先、先と流れるように、歌枕紹介の俳文・塩竃編もつながれます。壷の碑、野田の玉川、末の松山、沖の井・・
ノーベル賞の文学的評価の指針となる「不易流行」が奥州編に代表されます。
芸術的文学性本質の指針ー事実の心象をそのまま感動的に脚色するのではなく、事実を超えるほどの虚構脚色(男泣きの壷の碑)と伝統的な詩情・歴史的背景《 奥浄瑠璃、月海に映る、兎雉スウジョウの道、心細き長沼、高館、千歳の記念、平泉)を読者に訴えるドラマチックな構成こそ、国際的にも日本文学を代表する高い評価を得ています。文学作品の本質に迫る芭蕉創作言葉の一例:ー繊細にしてドラマチックな「月日は百代の過客」「千歳の記念」など・・・

1.「壺の碑」と「多賀城碑」について
「壺の碑」は「多賀城碑」とは別で、「多賀城碑」は、考古学的遺跡で学術的な見地から「国宝」に値すると認定。
「壺の碑」は文学上の表現で、鎌倉時代に歌人・歌学者の顕昭が著した歌学書「『袖中抄』(しゅうちゅうしょう)に初めて書かれている。
*『袖中抄』は、鎌倉時代初期に顕昭が著した歌学書で、『万葉集』以下の歌集等から難解な歌詞等約300について、諸書を引用しつつ自説を注したものである。
1)多賀城碑は、設置者の藤原朝獦が蝦夷平定を成し遂げた自身の功績を顕彰するために建造された。碑には多賀城創建が724年とあり、762年に建立され、2年後に藤原仲麻呂の乱で息子の朝獦も斬首され、謀反人の建てた碑として倒され埋もれた。歌人としての西行や源頼朝の歌に詠まれたが本物の碑は見ていない。

2)発見された江戸時代から第2次大戦中までは、『多賀城碑』は『壺の碑』とみられていたが、多賀城碑は後世の偽作ではないか、との嫌疑は江戸時代末期からかけられていたが、明治時代に入ると真偽論争が活発になった。多賀城碑は仙台藩が佐久間洞巖に命じて作らせた偽作であるとの説も有力となった。1963年(昭和38年)、多賀城跡の発掘調査が実施されると、8世紀半ばに多賀城の大規模な改修がおこなわれていたことが判明した。この新発見は多賀城改修を示した碑文後半の内容と一致する。それまで改修に言及する文献記録は発見されておらず、多賀城碑はこの改修を伝える唯一の文字史料として再び注目された。そして碑が偽作であるならば、これまで知られていなかった多賀城改修を記載できないはずだと考えられた。これをきっかけに多賀城碑偽作説の見直しが始まった。

3)多賀城市埋蔵文化財調査センターによると、多賀城碑にはかつて偽物説があったという。その後、1980年代終わりから90年代にかけて検証が進んだことで本物だということが通説となり、98年に国の重要文化財に指定され、創建1300年の令和6年に『国宝』に内定。
坂上田村麻呂が弓の弦で「日本中央」と彫ったという青森で発見された石碑が「壺の碑」だといわれ、長く多賀城碑は偽物説が主力だったが、「日本中央」という文字の意味が日本の真ん中ではなく、「要所」の意味で、また、田村麻呂の歴史を紐解くと、田村麻呂実は岩手県までしか北上した記録がない。
東山道は奈良から多賀城、段々伸びて秋田へ。朝鮮➔秋田➔多賀城➔奈良へと情報が伝わる。
<参考>2012年(平成24年)に青森大学学長だった森田稔は、現在保存・展示されている「日本中央の碑」は後世の偽物であるとしている。 盛田は、この石が鉄道を敷く時に無蓋貨車に乗せてきて、下の沢に落とした物であることを、地元で故人の地方史家から他言無用の約束で聞いたとしている。

2.塩竈について
芭蕉の旅の目的は、西行の追体験をすること。なぜか「塩竈桜」を詠んだ歌は無いが桜を見るのを目的にした。芭蕉は「奥の細道」を書くために、「万葉集」を始め、塩竈は日本一とかかれている「伊勢物語」など引用した文献は123冊。
塩竈の『竈』を大切に書いているのは、石巻で「人家地をあらそいて、竈(かまど)のけぶり立ちつづけたり」書いている。石巻は人家が密集しているがその人家の煙ではなく、「立ちつづけたり」とは塩つくりの煙のこと。この煙を風情があると考えられ、京都にある「塩竈」というところで、海水を汲んできて煙を出して風情を楽しんだという。奥州で和歌に一番詠まれたのが『塩竈』である。
国府多賀城に来た都人は塩竈を見ると素晴らしい所だと歌に詠んだ。文学的には、塩竈は日本一。景色は松島が日本一。
塩竈で芭蕉が「綱手かなしも」と書いているが、この表現は古今和歌集で初めに出ており、源頼朝も詠んでいる。
*京野代表が、荻原井泉水の「奥の細道ノート」をお薦め。

3.「現代の宗教観モデル(素案)」を説明
3次元から5次元の見方で物を見ると、

・「月日は百代の過客にして云々」は歳月の経過の事ではなく、太陽と月は100年も変わらぬお客だと考える。
・「行く春や鳥啼き魚の目は泪」は、目に見えない別れの悲しさ、嘘で本物以上に本物を訴えている。『風味』とは風に味はない、『風流』も風の流れは見られないが音楽に繋がる。
・芭蕉が元禄2年の旅の中で詠んだ歌の中で、推敲に推敲を重ねて5年後の「奥の細道」に遺ったのは『夏草や兵どもが夢の跡』だけ。
・「おくの細道」の構成は、連句的技法による構成。(テキストP16参照)
春➝夏➝秋➝冬➝初春の順で「おくの細道」を読むと流れが分かる。    17句と35句には必ず『花』を詠む。「奥の細道」はドラマチックな構成で追随を許さない名作である。
(参考「奥の細道ノート」)―『奥の細道』は旅の紀行文として、次から次へと旅日記風に書いたものではない。(中略)俳文や発句を研究した人は古今に数限りなくおり、著書もおびただしく多いが、大抵は字句の辞書的注釈、地理風土の考証、故事出典の検索、又は古い文献との対校などが主であって全編の構成方法という一番肝心な点に注目した人が少ない。この作品は、一遍の文学的作品として創作的に書いたものであり、「はじめ」があり、「終」があるように「発端」と「終末」が相照応するように書いている。― 従って連句的技法という「おくの細道」の構成に注目したい。
―「秋深き隣は何をする人ぞ」。こういう荘重の「調べ」を捉え得たものは、茫茫たる三百年間にたった芭蕉一人である。芭蕉は子弟を訓えるのに「俳諧は万葉集の心なり」と言った。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以である」―(テキストP21『おくの細道』仙台領内の構成についての表。京野代表作成)

<質問タイム>
1.元禄2年に芭蕉の見た「塩竈桜」はどんな桜だったのか。
―調べて次回に発表する。
・芭蕉は元禄2年に旅に出立し155日間で600句を詠んでいる。5年後の元禄7年に「奥の細道」を完成。その5年間に、旅の日付などを俳句の形式に直して63句のみに改編。
2・芭蕉は、多賀城碑から陸奥総社宮から塩竈の道の方が、末の松山や沖の石から塩竈へ行った方が早いのではないか。
―仙台で、画工加右衛門より地図を貰い、 中央と地方、また町と町とを結ぶ、行政上、交通上主要な道路の街道は、道幅・一里塚などが決められていて安全だが、末の松山や沖の石への道路は「八幡道」で街道から外れると危ない道である。(テキストP111「藩政期における街道以外の古道」)
3.配付された「塩竈図」に表記されている千臺國分町版元の引地屋市兵衛とはどんな人物か。
―大町二丁目甚兵衛が何故芭蕉から短冊をもらったのか。甚兵衛は泉屋を訪れる。飛脚屋は定宿が決まっている。
・地図の中央近くのお釜神社の向かいに、矢の印のところに「湯屋」があるが、当時は蒸し風呂で、水風呂は特別な湯場で一関などにあった。
・地図の左上の松嶋寺とは瑞巌寺の事。女人入日とは、普段お寺は女人禁止だが、春秋の彼岸だけは寺に入れる。彼岸七日中は七月三十日。
・版元の「引地屋市兵衛」については今後調べる。
次回は7月6日(土)塩釜公民館 午前10時~12時
(参考資料)松島湾に映した「太陽と月」ー京野代表の提供した写真で作られた松島ロータリークラブのパンフ

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