芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!

郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。

現在の支援総額

411,500

41%

目標金額:1,000,000円

サポーター

39

残り

終了

このプロジェクトは終了しました

このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。

2024年04月17日

4月16日ミニ旅『おくの細道』出前講座(名取市・岩沼市)

4月16日奥州仙台領の『おくの細道』ミニ旅研修

「名取・笠島・藤原実方朝臣の墓参り」~「岩沼・武隈の松」を実地見学研修。
先ず、平安時代中期の公家・歌人で中古三十六歌仙の一人で、一条天皇に仕えた藤原実方のお墓参りに。


藤原氏は皇室との結びつきが深く大きな権力を持っていた貴族で、政治に大きく関り、実方は能因や西行に先駆けて、みちのく歌枕散歩に先鞭をつけた歌人で、和歌の才能もあり宮中の花形の貴公子として、また、宮中の女性からも大変な人気者で、紫式部の「源氏物語」の主人公光源氏のモデルの一人とも言われ、ライバルの清少納言とは恋の贈答歌を交わしたそうです。しかし名取市の愛島で落馬して怪我をし、それがもとで亡くなった。思慕する西行が墓参りしたことで、芭蕉も墓参りしようとしたが、雨天で足元が悪くやむを得ず諦めた際に、~笠島や いずこ五月の ぬかり道~の句を詠んだ。(名取市商工観光課パンフ)


芭蕉の本文には、白石を経て名取編の次に、岩沼編の紀行文となっているのは何故か。この構成意図を解説。俳諧に於ける季語の流れに注目すると、初作と比べて季語にも流れを感じる。芭蕉は旅をしてから2年後から紀行文を書き始め、構想を練りながら5年後に「奥の細道」を完成させた。冒頭に「松島の月まず心にかかりて・・・」と記し、松島に大きな期待を抱いて旅を始めて、紀行文では仙台編から松島編が全体のかなりの部分を占め、松島では「抑事ふりにたれど松島は扶桑第一の好風にしておよそ洞庭・西湖を恥ず。・・・」と風光明媚なところと感動している。

次に「武隈の松」見学へ岩沼に移動。
「武隈の松(二本の松)」は西行や芭蕉も憧れ、陸奥には数多い歌枕の中でも詠歌の多さでは屈指の名松で、国の名勝に指定されたその理由は、
①芭蕉が仰ぎ見て、「目覚る心地」を覚えた、根方が二木に分かれた樹形の老松(五代目)と、同様の樹形の松(七代目)が植えられていること。
②古代より幾多の困難を経ても、なお歌枕の地であることを誇りとして、代々この地に植え継がれてきたこと。
③芭蕉が訪れ、「桜より 松は二木を 三月越し」の句を詠んでいること。(岩沼市HP)

「奥の細道」は旅の紀行文として、次から次へと旅日記風に書いたものではない。この作品は、一編の文学的作品として創造的に書いたもので、「はじめ」があり「終」があるように「発端」と「終末」が相照応するように書いている。(テキストP16、17)
先ず、連句的技法という「奥の細道」の構成を解説。
先ず、はじめの発句~行く春や鳥啼き魚の目は泪~に対して、「終」は~蛤のふたみにわかれ行秋ぞ~である。「行く秋」に照応させた「行く春」は、執筆中、幾たびの推敲を重ねた末に挿入された挙句(終わり)と解説され、創作文学ならではの表現と言われている。こうした伝統的な連句的技法を巧みに取り入れた作品の味わいを理解し、芭蕉が心血を注いだ「奥の細道」の変化に富んだ構成に注目した解説を聞く。

1.連句の構成を知ろう
2.俳諧は、新鮮な風情を尊重する。連句の席では、新たな風情が求められ、常に斬新さや創造性が好まれた。古いまま和歌の伝統にふける趣きも好まれなかった。
3.従って、季節後戻りの句は好まれず、“観音開き”となる発句は、後戻りとなり、禁じられた。常に季節も先、先と流れるようにつながれた。
五月一日の飯塚~笈も太刀も五月に飾れ上幟~の句作から平泉~夏草や兵どもが夢の跡~までの六句について初作と推敲後に取り入れた句について連句的技法での解説。ただし、~夏草や・・・~だけは直しなしで採用された。
例えば、初作:弁慶が笈も太刀も上幟
*笈も太刀も五月に飾れ上幟 (五月)
初作:笠島やいずこ五月のぬかり道
*笠島はいずこ五月のぬかり道 (五月)
以後(遅桜)~(あやめ草)~(時鳥)~(夏)と移っていく。

そしてお昼になり、閖上の牛タンスタンド本店「陣中」で牛タンと海鮮のバーべ―キュウを食べながら交流を楽しんだ。

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