芭蕉が見た「本物のみちのく」の魅力解説本を出版し、地域観光の活性化へ繋げたい!

郷土の名所・旧跡を芭蕉の視点で伝えるガイド体験を通して調査研究成果20余年分を一冊の本にまとめた『奥州仙台領のおくの細道』を出版。 郷土に誇りを持つ“粋な伊達の語り部”の育成と、不易流行の地域の宝を活用して、心豊かな観光地の活性化へと取り組んでいくプロジェクトです。

現在の支援総額

411,500

41%

目標金額:1,000,000円

サポーター

39

残り

終了

このプロジェクトは終了しました

このプロジェクトは、2022年01月11日に募集を開始し、2022年02月27日 23:59に終了しました。

2024年04月07日

4月6日定例出前講座開催~塩竈会場~

今年度は会場を塩竈市公民館に移し4月6日に開催。

テーマは「多賀城碑を何故芭蕉は“壺の碑”と書き、“塩竈”なのか」
今年多賀城政庁創建1300年を迎えるが、それは“多賀城碑=壺の碑”に彫られていた神亀元年(724年)創建が根拠となり、この3月15日に『国宝指定』と報道されました。
昨年より、国宝!多賀城碑提唱という新たな視点で、『おくの細道』多賀城の「国内唯一の史跡文化」を見直しながら講座内容を「国宝に値する」という事の解説をしてきました。
藤原仲麻呂の4男で、参議東海東山節度使・将軍恵美朝臣藤原朝獦が天平6年に建立した碑文に、神亀元年に多賀城政庁が創建されたと記されており、そして建立2年後の天平宝字8年には、仲麻呂の乱により、朝獦も逆賊として斬首され、逆賊が建立した多賀城碑という事で倒されて、碑文の面を下にして土中に埋もれてしまう。

江戸期(寛文年間)に掘り起こされた「碑」は、現地では当時、「竪石」と呼ばれたが、元禄2年5月8日多賀城を訪問した芭蕉は現地で碑文を書き写し、推敲を重ねた「奥の細道」の最終稿には「壺碑 市川村多賀城に有」、「疑いなき千歳の記念」と書いた。
平安時代になって、「壺の碑」とは、坂上田村麻呂が「日本中央」と刻んだ「碑」と都びとから慕われ、陸奥を代表する歌枕となる。以後、多くの歌人が「壺の碑」を詠む。百人一首の鎌倉期に、頼朝が平泉を訪ねるが、曾良の俳諧書留にも、新古今和歌集にも、頼朝の和歌が記されて、壺碑は有名になっていく。しかし、「碑」の存在は幻のままであった。江戸期に多賀城発掘の碑が、話題を呼ぶが真贋論争になり偽物説が主力となる。
しかし、壺の碑として話題になっていたのは、青森県東北町に保存されている「日本中央」と刻まれた謎の石碑。「日本中央の碑(いしぶみ)」と呼ばれるこの巨石、実は平安時代に征夷大将軍を2度務めた武官・坂上田村麻呂が遺した伝説の「つぼのいしぶみ(壺の碑)」ではないかといわれている。それが事実なら国宝級の歴史的遺物といえるが、多賀城政庁跡の遺跡発掘などにより、平成10年6月30日に多賀城碑は国の重要文化財(古文書)に指定されました。そして、今年の3月15日に『現存する数少ない奈良時代の石碑であることや、古事記や六国史にも記されていない多賀城の創建された年が唯一記されていることなどが評価され、国宝に指定されました。

「奥の細道」は脚色された最高の紀行文である
曾良の随行日記では、塩竈街道を経て、市川村「壺の碑」を見た後、塩竈宿の治平衛到着後に、末の松山を往復している。しかし、「奥の細道」本文では、塩竈宿を後にして、末の松山を先に記している。即ち、歌枕を優先している。意識構成と見たい。仙台宿で加右衛門の指示通り旅を重ねているが、ここは芭蕉の脚色としての創作・構成の見せ所と評釈したい。
もともと芭蕉は、元禄2年に旅に出たが、その2年後に「奥の細道」を書き始めて、元禄7年に紀行文「奥の細道」が脚色された芸術作品として完成。芭蕉は旅の中では600句以上読んでいるが、推敲し練り直して最終的には「奥の細道」には63句が掲載された。松島でも「島々や 千々に砕けて 夏の海」と読んでいるが「奥の細道」には採用されなかった。何故か、それは「奥の細道」が曾良の日記と違い、脚色された紀行文であるからだ。

*令和6年度の「おくの細道松島海道」の総会を5月11日(土)塩竈市公民館で開催。
記念講演で渡辺誠一郎氏予定。一般の方の参加募集。
申込先Eメール:asanuma41sake@sirius.ocn.ne.jp(事務局 浅沼)

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